『タイ事典』―日本の中のタイ―去る7月の暑い日、小用で徳島市に出かけた。郊外を車で走っていたとき、デザインされたタイ文字で書かれたきわめて大きな看板が目に入った。明らかに周囲の風景から飛び出した看板で、私は大層驚いた。すぐに車を停め、お邪魔してみることにした。店のドアを開けて中に入って、初めて美容院であることがわかった。てっきりオーナーはタイ人かと思ったが、まだ若い日本人女性であった。タイ文字の大看板についてたずねたところ、それほど深い意味はなく、タイ旅行に出かけた際タイ文字に魅せられ、なんとなく使用してみた、ということであった。日本の地方都市で、まだ田畑が残っている郊外に所在する美容院に、タイ文字の看板が堂々と使用されていたことに、私は大変驚いたのであった。 東京の世田谷区の東京農業大学の近くに同大学の「食と農の博物館」と財団法人進化生物学研究所の建物がある。研究所には、珍しい動物や植物の展示があり、その筋では知られている。その入り口に、シンボル的な存在として異様な鶏の巨大像が立っている。セメント製のその像は直立型の闘鶏がモデルになっており、高さは2メートル半に達する。おおよそ、想像を絶する鶏像である。この巨大鶏像は、昨年の3月から5月にかけて東京大学総合博物館で開催された特別展示「鳥のビオソフィア―山階コレクションへの誘い」で、入り口を飾り人気となった一対の片方である。実は、この鶏像は、人間と動物(鳥)の関係を示すひとつの題材としてタイから取り寄せられたものである。アユッタヤー王朝第20代目の国王でビルマからの独立を回復したことで有名なナレースワン大王が闘鶏好きであったこともあり、スパンブリーやアユッタヤーにある同王の記念館には庶民が寄進した大小のセメント製鶏像が無数に並んでいる。それにしても、重量1トン近くの巨大像がよくぞ日本まで運ばれたものである。 この二つの「日本の中のタイ」の例は、日本社会の中のタイ文化の今日的状況の一端を物語っているといえよう。おそらくは、タイ料理だけではなくさまざまな形でタイ文化がわたしたちの周囲に存在しているものと思われる。もはや、経済交流や観光交流のみの日タイ関係時代は終わり、学術、教育、漫画、映画、音楽、絵画といった分野の交流が増加し、交流の担い手としても官や企業に加えてNGOなどの民間団体が元気になって来ている。あきらかに、量と質の両面において日タイ関係は新たな段階に入りつつある。私たちは、よりタイを知り勉強しなければならない。 そうした背景の中、私も関係している「日本タイ学会」の手によりこのほど『タイ事典』(日本タイ学会編、(株)めこん発行)が刊行された。そろそろ店頭に並ぶはずである。この約550ページからなる事典は、タイに関する諸分野から約830項目にのぼる重要事項を取り上げ、五十音順に並べ、それぞれについて専門家が解説を加えたものである。とりあげられている分野は、地理、歴史、民族、言語、政治、行政、経済、産業、社会(村落)、宗教、美術、文化、教育、観光、交通、国際関係、日タイ関係などで、ほぼ全分野に渡っている。たとえば、タイの政治史を彩るクーデタ、歴代の国王、国家経済計画から少子高齢化、伝統芸能、バイク・タクシー、あいさつまで、おおよそタイを知るための重要項目が収録されており、身近にあればきわめて便利である。加えて、人口、経済、労働、輸出入、国際収支、投資、予算、在留邦人数などに関する統計も充実している。また、国歌、歴代首相、クーデタ、総選挙、軍組織、サンガ組織、教育制度などの資料も付されている。圧巻は文献案内で、1990年から2008年に出版されたタイ関係書籍が網羅されている。索引も完備しており、見出し項目として取り上げられなかったことがらについても検索することが可能である。 この『タイ事典』の編纂作業に当たった日本タイ学会は1999年に設立されており、日本におけるタイ研究者の集まりである。前述のような日タイ関係を反映して、このところ若い世代の会員がずいぶん増加して来ており、タイに関するさまざまな分野の研究者を擁している。私は、現在の日本のタイ学の水準は世界でも高いと思っている。それは、これまでの日タイ交流の高まりや増えつつある「日本の中のタイ」が、その水準を支えているのである。逆に言えば、日タイ交流や「日本の中のタイ」の促進を間接的に支援するのが日本タイ学会の役割でもある。今回の『タイ事典』は、その役割のひとつと言えよう。 この『タイ事典』出版のことを聞いたタイの日本研究者が、『日本文化事典』編纂の計画を検討しているという。うれしいニュースである。私たち教育・研究者の日タイ交流も一段と進展を見せているようである。 赤木攻氏のプロフィール
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