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西野篤子さん(シンガポール):薬屋ヤモメ、突風疾走記(2)

過去とさよなら、わが道を
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今年もその日が近くなった。あれから4年。きのうのような気もするし、はるか昔のようにも思う。もちろん、今年も出かける。夫の魂が眠る、あの河のほとりには。心の洗濯をするために、また自分を見つめ直すために――。

「ご主人の乗られた飛行機が、管制塔のレーダーから姿を消して、どうも事故に遭われたようなのですが……」

深夜にかかってきた電話は、シンガポールの日本大使館からのものだった。聞きながら、なんだかテレビのドラマのような気がしたが、受話器を持つ手はふるえていた。何かのまちがいであってほしい、と心の中で叫んでいた。

■文集『西野始』

当時の新聞記事によると、1997年12月19日夕、ジャカルタ発シンガポール行きのシルクエア185便が、スマトラ島南部のパレンバン郊外56キロ地点のムシ河に墜落した。この事故で、乗客乗員の計104人全員が死亡。その中には2人の日本人客がまじり、うち1人はシンガポールで薬局を営む西野始(はじめ)さんだった。享年、40歳。

「インタビューなら、わたしなんかより主人のほうが、はるかにおもしろくて、内容が濃いものになるにちがいないんですけどねえ」

こう語る篤子(あつこ)さんは、目立つのが大の苦手で、いつも裏方に回りたいタイプ。足跡を残さないのを理想の生き方とする。ところが、遺体すら残さず、スマトラで雲隠れした夫の西野さんは、生き急ぐかのように、強烈な個性をあたりかまわず発散させ、世界中に足跡を残してきた。それだけに友人も多い。その死を悼んで、思い出の文集をつくろうとの仲間の呼びかけには、国境を超えて多くの人から一文が寄せられた。

西野さんは独特の風貌の持ち主で、口ヒゲをはやした“怪しいメキシコ人”とも形容された。ユーモアとワイ談をこよなく愛し、いつも大声で「やべえ!」を連発する。天性の野人のようなキャラクターに加え、人の苦しみを自分のものとして受けとめるハートも持ち合わせていた。

飛行機事故は、そうした愛すべき人物の命を一瞬にして強奪してしまった。あとに残された者の、非情な空しさと喪失感。篤子さんが「もし、よろしければ」と遠慮がちに差し出してくれた『文集』には、心の空洞を懸命に埋めようとする人たちの思いのたけがつづられている。

飛行機事故によって、篤子さんには山ほどの思い出と薬局経営という重荷が残された。裏方を好み、それに徹してきた自分に、果たしてそんな重荷が背負えるのだろうか。突風にも似た予告なき試練。それは自分との戦いでもあった。

■夢見る薬剤師

静岡市の生まれ。両親に兄1人の4人家族で、生活苦などは無縁の平和な少女時代を過ごした。

地元で最大手の建設会社に勤めていた父親は、専務まで上り詰めたが、あぶら汗をたぎらせるタイプとはほど遠く、娘の目からみて、性格温厚にして頭脳明晰。何でも話し合える理想的な父親だった。その生き方は、和して同ぜず。周囲とは足並みをそろえながらも、自分を曲げることはない。仕事は時間内に終わらせ、さっさと帰宅する。群れることを毛嫌いした。

小学校に上がってすぐ、同じ市内の住宅地に引っ越しする。友だちづくりは一から始めなければならなかった。そのことは中高一貫の女子校に入ったときも同じだったが、父親の血を受け継いだ娘は、意に介することはなかった。

将来は獣医になりたいと思っていたが、その道に進むには学力面でハードルが高すぎた。それで獣医と同様に、何か手に職があればと考え、東邦大学の薬学部に入る。薬剤師を目指した。

料理好きで、クッキーやケーキづくりが得意だった。女子校や大学の友人からは、「篤子は必ず、いいお嫁さんになるよ」とはやし立てられる。そう言われるたびに本人もその気になったが、一方で、良妻賢母は自分のイメージに合わないように思う。心の中では、「そこらの主婦には絶対になるものか」と反発していた。

そうした反発は、外国へのあこがれを倍化させた。英語が好きだったこともあり、アメリカ留学を希望するが、両親は猛反対。大学4年のとき、留学がダメならせめて旅行でもと押し切り、ツアー客にまじって一人、カリフォルニアの青い空の下に舞い降りた。「やっと来たぞ」と街歩きを楽しみ、ディズニーランドを堪能したが、しばらくすると、「アメリカって、この程度のものか」と冷めてくる。そんな自分に気づいたりもした。

卒業すると郷里の静岡に戻り、老舗の薬局に就職する。薬剤師の国家試験合格の朗報は、そこでの運命的な出会いとともにやってきた。

■バイクで世界一周

1カ月ほど遅れて入社した彼は、「西野です」と名乗った。第一印象は“変なヤツ”。家から職場までそんなに遠くはないのに、その色黒でデカ鼻は、オートバイで通勤し、始業前に長いブーツを革靴にはき替えていた。腕に奇妙なリンクを巻いているので、「それ何なの」と聞くと、「象のしっぽだよ」。冗談としか思えなかったが、相手はニヤニヤ笑うばかりだった。

そのころは、「坂本さん」「西野君」の関係。同い年で同期入社のよしみから、次第に打ち解けて話すようになった。西野君はなんでも、大学時代にスワヒリ語をかじり、アフリカを2カ月余り放浪したことがある。現地で日本のテレビ局の取材を手伝っていたとき、象の一群に襲われて死にそうになった。そんなことをユーモアたっぷりに話す。象のしっぽは正真正銘のものだった。

西野君のアフリカでの冒険談は、かつての夢見る少女をうっとりさせた。家が近いこともあって一緒に帰るようになると、親密さも増してくる。恋心も膨らんできた。

その西野君からあるとき、バイクによる世界一周計画を打ち明けられる。「わあ、すごい。わたしも一緒にいきたい」と思ったが、それは無理な相談だった。しかし、自分の夢は異郷を駆ける旅人に託すことができる。それで全面的に応援することにした。

「取り残されるわたしをかわいそうに思ったんでしょうね。出発する前にわたしの家に寄って、『帰国すれば、篤子さんを妻にします』といった誓約書みたいなものを出して、父に頭を下げてくれました」

出発は1981年11月。ロサンゼルスに飛んで500ccのヤマハXTを調達し、北米から中南米、アフリカ、ヨーロッパ、中近東、そしてアジアを一巡するという気宇壮大な計画だった。

■アフリカ宅配人

篤子さんのもとにはマメに手紙が届いた。電話もくれる。アマゾン流域の小さな町から、でっかい声で、「もし、もーし。オレだけど」。たいていはコレクトコールだった。

ブラジルのサンパウロから南アフリカのケープタウンまでは、解体したバイクを箱詰めにして格安の航空券で飛ぶという。いよいよアフリカか、と思うと、篤子さんの胸は熱くなった。「わたしも飛んで行きたい!」

西野さんがまだ南米にいたとき、手紙でアフリカ行きの希望を伝えると、返事は「来るな。来れば決心が揺らぐから」。それでも、どうしても行くと押し通すと、最後には相手が根負けした。「来るのならバイクの部品、持ってきて」。

しばらくすると、部品のリストが送られてきた。それらをいちいち用意するのは並大抵のことではない。「あの人にとって、わたしは単なる運び屋か」と思ったが、心は弾んでいた。準備万端整えて、勤め先には辞表を出し、両親には有無を言わせず、「行ってきまーす」。

英国航空で大阪の伊丹から飛び立ち、香港とコロンボを経由してセーシェルで1泊。翌日、ケニア航空に乗り換えてナイロビに着いた。

荷物はタイヤのほかに工具や部品でいっぱい。機内では「どうやって税関を通ろうか」と心配したが、隣席の人の計らいで難なくクリアした。空港に迎えに来ているその人の親戚は、税関に顔がきくらしかった。

ロビーで出迎えの人垣をいくら探しても、肝心の人はいない。焦った。背伸びして人垣の向こうを見渡すと、遠くのほうでこちらを向いてヒマそうにたばこをふかしている東洋人の男がいる。手を振ると、その人は照れくさそうにやってきた。1年半ぶりの再会だった。

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■キリマンジャロ周遊

南米やアフリカの大地にもまれてきた西野さんは、以前よりもいっそうたくましく、精悍に見えた。一方の篤子さんは、長旅の疲れと「やっと会えた」との安堵感でぐったり。ナイロビのホテルで数日を過ごした。

体調が回復すると、安宿のゲストハウスに移ったが、篤子さんにとってそこはあまりにも刺激的で、カルチャーショックが強すぎた。この人はこれまで、こんなところで寝起きしてきたのか……。西野さんの過酷な旅暮らしの一端に触れた気がした。

ケニア南部のナイロビは、タンザニア国境に近い。バイクで国境を越えると、雲海を突き出て万年雪をかぶったアフリカの最高峰、キリマンジャロの山頂が目に入った。バイクは雄大な景観の中を疾駆する。西野さんはその途中、バイクを止めて地元の人に道を聞きながら冗談を交わしている。その後ろ姿はなんだか輝いて見えた。

オン・ザ・ロード・アゲイン。ときにはサバンナのキリンたちと併走する。篤子さんはドライバーの背中にしがみつきながら、「この人についていったら、人生、楽しいだろうな」と思った。キリマンジャロのふもとの町、アリューシャで過ごした数日は最高の思い出となった。

1カ月の異郷での逢瀬はまたたく間に過ぎる。旅人はこの先、北上してスーダンからサハラ砂漠に挑むという。篤子さんは帰国して、旅人の旅の終わりを待つしかなかった。

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アフリカから帰国した篤子さんは、家の近くの小さな薬局に勤める。一方の西野さんは、ケニアから北上してサハラ砂漠を抜け、ヨーロッパに入った。その後、ユーラシア大陸を東に走ってアジアに戻る計画だったが、ロンドンにたどり着いた時点で力つきる。

当初の計画では世界一周10万キロの旅だったが、気がつけば走行距離はすでに14万キロを突破している。バイクもカネも、そして肝心の気力さえもが限界にきていた。3年3カ月にわたる旅にピリオドを打ち、篤子さんが待つ静岡に1985年1月に帰ってきた。

■シンガポールで薬屋に

2人はその年の11月に結婚する。とりあえず職探しを始めた西野さんが、地元でスーパーと薬局のチェーンを展開するキミサワに就職したのは、それなりの理由があった。キミサワはそのころ、シンガポールに出店するスーパーの中に薬局を設ける計画を進めていたが、西野さんはそれに飛びついたわけだ。

夫婦は1986年に前後してシンガポールにやってきた。夫は薬局の立ち上げとその後の運営で忙しかったが、妻は主婦業に専念する。英語学校に通ったりして友達の輪を広げた。

赴任して5年が過ぎると、そろそろ交代の時期になる。夫はそのころ迷っていたが、最後には腹をくくった。「ぼくは帰りません。ここに残るので辞めます」。妻もこれに異存はない。「主人はもともとサラリーマンには向かないと思っていましたから」。

辞めるとなると、ほかの会社から声がかかったが、夫は独立の道を選ぶ。そごうの関係者と親しかったこともあり、1年近くの準備期間を置いて、繁華街であるオーチャードロード沿いのそごうパラゴン店の中に西野薬局(ニシノ・ファーマシー)を構えた。

二人三脚でのスタートだった。妻は社長と店長を兼務する夫を支えたが、最初のころは仕事のやり方で衝突することもあった。夫は弁が立つ。一言いえば、十言かえってきて、いつも言い負かされる。当然、気分が悪い。だから口出しせず、「わたしは従業員」と割り切った。そのほうが楽だった。

店が軌道に乗り出すと、他の日系デパートからも出店の声がかかり、3店舗に増やす。夫は店ではネクタイを締め、客には笑顔で接していたが、一緒に働く妻から見れば、頭の中はいつもどこかに遊泳していた。仕事にかこつけては店を妻にまかせて、コンクリートジャングルのシンガポールから抜け出すようになる。

「出かけるときはルンルン気分でしたね。背中に羽がはえているみたいでした。混沌として何でもありのインドネシアやベトナムがたまらなく好きで、帰ってくると、『将来はあっちに住もうよ』なんて、うなされたように話していました」

■スマトラのホタル

1997年の7月からアジア全域を襲った経済危機は、そんな西野さんでも気にしていた様子だった。12月の中旬になると、クリスマスカードを急いで書き込み、「ちょっとジャカルタに行ってくる」との言葉を残して家を出た。いつもの“混沌病”かな、と思った篤子さんは、気にもせずに店に出て、店長の留守を預かっていた。

そして、その日、12月19日がやってくる。仕事を終えて帰宅してからの、深夜の日本大使館からの事故の急報は、最初のうち、「まさか!」と人ごととしか思えなかった。しかし、それは現実だった。

篤子さんは一睡もせず、翌朝、特別機でパレンバン空港に到着する。日本から駆けつけてくれた両親や義兄と合流し、ボートで2時間近くかけて事故現場に着いた。機体は流れの速い川幅300メートルほどのムシ河の底に沈んだままで、その残骸や遺体などはすでに下流に押し流されてしまったという。川面には事故の跡形すらなかった。近くに停泊する軍艦と上空で旋回するヘリコプターだけが、そこに事故があったことを証明しているかのようだった。

ボートは事故水域に立ち入ることができないため、対岸につける。粗末な高床式の家が点在する集落があった。貧しくても明るく元気な子供たちに迎え入れられ、篤子さんは気をまぎらすことができた。

周辺はマングローブのジャングルが広がっている。河のほとりに立って大自然のパノラマを眺める篤子さんの目には、この風景がアマゾンとアフリカを足して2で割ったように映った。

「もしかして、あの人はここを今生の別れの地に選んだのではないか、とも思いました。それほど彼が好きそうな場所でしたから」

せめて遺体が上がるまでは、と10日ほど捜索活動を見守ったが、その願いは空しかった。いよいよ現場を去る日の夕方になって、篤子さんが河の流れに花束を投げ入れようとすると、手元にホタルが1匹飛んできて、なかなか離れようとしない。その様子を見ていた両親らには、西野さんがホタルになって別れを告げにきたように思えた。

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■悲しくても泣けない

篤子さんにはこの間、涙が出なかった。みんなの前で泣き崩れる姿など見せたくない、といった気持ちもあったが、持ち前のそうした気丈さから涙が出なかったのではない。あまりのショックと途方もない悲しみゆえに、涙が止まってしまったのだ。悲しくて仕方なかったが、どうしても泣けなかった。

「電話で話していても、友達のほうが泣き出して、わたしは逆に励ましたりしていましたけど、そういうのって、いつまでも続きませんね。年が明けて、春先ぐらいから主人と親しかった人たちに会って話していると、それまでにたまっていた涙が一気に噴き出してきました。人間らしくなったのかもしれません」

その後、西野さんを慕う多くの人がシンガポールを訪ね、そのたびに篤子さんはスマトラの事故現場へと案内した。ムシ河のほとりに広がる大自然に接すると、友人の誰もが、「うーん、納得。あいつはここを選んだな」と言う。そうした感想を耳にするにつけ、篤子さんには奇妙な安堵感がわき起こり、「ここで良かったね」と夫の霊にささやきかけた。その霊はまたバイクにまたがって、どこか遠いところを旅しているかもしれないが……。

何度も訪れているうちに、現場近くの集落の住民とも仲良くなった。とりわけ子供たちは、行けば総出で迎えてくれる。言葉は通じなくても、ハートは通じた。

「行くたびに、みんな大きくなってるんですよ。子供たちの成長ぶりを見るのは楽しみですね。わたしたち夫婦には子供ができなかったんですが、その分、彼らのために何かできればいいなあと思います。インドネシアは主人もわたしも大好きなんです。わたしの力なんてないに等しいんですけど、インドネシアのために少しは役に立ちたいですね」

■裏方から社長に

西野さんの急死によって、薬局運営の舵取りは篤子さんに任されることになった。それまで裏方に徹してきたため、すぐには従業員の感覚から抜け切れない。とまどい、また悩んだ。当時は経済危機のあおりで店の売り上げも落ち込んでいたため、すべて投げ出すことも選択肢の一つだったが、篤子さんは存続の道を選ぶ。

「主人のためというよりも、自分のためだったんです。どうしても負けたくなかった。意地でした。どうせ身を引くなら、店をいい状態にしてからにしようと思いました」

西野薬局はその後、1店舗増やして4店舗になるが、そごうパラゴン店の閉鎖にともなって、また3店舗に戻った。この間、負けてなるものかと気を張ってきたが、弱音を吐きたくなるときもある。難題が持ち上がれば、「こんなとき、主人がいたらなあ」「主人だったら、どうさばくんだろう」と思わずにはいられない。そして落ち着くところはいつも、「わたしにはやっぱり、社長業は向かない」だった。

試行錯誤を繰り返しながらコマネズミのように働くうちに、店のレイアウトや品揃え、人の扱いなどが、西野流から篤子流に少しずつ変わってきた。今年になって女性従業員の幹部クラスが相次いで退職し、かわって日本人を含む男性スタッフが入社する。仕事の一部は彼らに回すことができるようになり、篤子さんは「少し楽になりました」と言う。

■今年もムシ河へ

ただ、商売は本質的に好きではない。静岡の両親からは、「早く帰っておいで」と催促される。さて、この先、どうしよう。いろいろ思案するが、東洋医学には以前から関心があるので、その方面の道に進みたいとも思う。

最近になって、10年住んだマンションから、“遺児”でもある2匹の愛猫ともども引っ越した。夫との思い出がいっぱい詰まった家だったが、荷物の整理をしていてどうしようかと迷っていたとき、「全部捨てちゃえよ!」という夫の声を聞いたような気がした。篤子さんもモノにはこだわらない。心の中で、思い出が生き続けていればそれでいい。

その思い出にしても、心の中にいつまでも夫を閉じ込めていると、夫はあの世で自由になれない。この際だから、夫を解放してあげよう。そうすれば、夫はまた好きなところに羽ばたいていくことができる――。

時の癒しとも言うべきか、4年の歳月と引っ越しを経て、飛行機事故はようやく過去になりつつあり、夫の死も過去の事実として受け入れられるようになってきた。篤子さんはそうした自分を確認する意味でも、今年もまた、あのムシ河のほとりを訪ねる。

(大住昭)


2000年5月から連載してきました『アジア日本人群像』は、今回をもって終了させていただきます。なお、この『アジア日本人群像』はNNAから単行本として発売中です。⇒詳しくはこちらへ

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