
「香港柔道の父」といえる岩見氏は、香港日本人社会の顔でもある重鎮的存在である。その岩見氏が経営する東洋警備(香港)は、日本総領事館など300社以上のオフィス警備を請け負っている。レスリングのオリンピック元日本代表候補で、政治家を志していた岩見氏は文字通り、波乱万丈の人生を送ってきた。その人生ドラマの一片を覗いてみた。
岩見氏が香港に住み付いたのは、偶然といっていい。1962年、中曽根康弘元首相の秘書として、「青年アジア協会」が組織したフィリピン訪問団に参加したのが発端である。横浜を発った船はマニラに向かうはずだったが、あるメンバーが船内でトラブルに巻き込まれ、重傷を負ってしまった。岩見氏は彼の看病のため、マニラ行きを諦め、香港で急遽数週間の滞在を余儀なくされてしまった。香港は活気に満ち溢れていた。すべてに圧倒される思いで九龍を歩いていると、どこからか「ヤー」という掛け声が聞こえてきた。柔道場だ。大学ではレスリング部だったが、柔道も黒帯の腕前である。さっそく教えることになった。面白い都市だ――。この地で国際的視野を身に付け、政治家になるのはその後でも遅くないかもしれない。帰国後、中曽根氏に相談すると「大いにやりなさい」と励まされた。
損得勘定を度外視
そこで岩見氏は再び来港し、貿易会社で働きながら、香港警察などで朝から晩まで柔道を教えた。そして2年後には自分の道場を開くまでにこぎつけた。日本人が開く柔道場というもの珍しさから、入門者はあっという間に集まった。ところが、5香港ドル(当時約300円)程度の入門料さえ払えない若者たちが多い。「仕方なく無料で教えていたら、ニワトリや野菜を持ってくる者たちもいました(笑)」。孫が日本人の鬼に柔道を教えてもらっていると聞き、怒り心頭でやってきた日本嫌いのおばあさんが、稽古をみているうちに、逆に感心して帰っていったこともあったという。損得勘定を度外視し、子供たちに熱心に教える岩見氏の姿を見て、スポンサーになる人々も現れ出した。70年代初頭には、大成建設の香港現地法人に雇用され、生活資金には全く不自由しないようになった。だが、うまくいっていた香港の生活も、挫折の時を迎えることになる。海外建設事業環境の変化により、建設資材供給基地だった香港現法の機能が急低下し始めたからだ。「自分が高給であるために会社に迷惑をかけるわけにはいかない」と、岩見氏は自ら退社を申し出た。20年ぶりに日本への帰国を決意したものの、あてなど何もない。柔道場も弟子たちに託した。子供はまだ3歳になったばかりだった。東京では、不思議な縁が待っていた。友人たちにさまざまな仕事を紹介されるうちに、有力財界人の目に止まる。ある優良企業の社長に抜擢されることになり、ベンツを乗り回す夢のような生活を享受した。だがそんな豪華な生活でありながら、心の奥にはどこからか隙間風が吹いていた。岩見氏は話す。「『霞を食う生活』と苦言を呈された時、反発しながらも、心では『全くその通りだ』と、虚を突かれる思いでした」。
3万人の教え子
別の方向から、見計らったかのように同時にやってきた警備会社経営の話は、まさに渡りに船だった。そして捲土重来を期し、再び香港に戻った。警備会社経営ライセンスは本来、警察出身者しか取得できないが、岩見氏は警察で柔道を教えていた経験を評価され、筆記試験だけで取得することができた。道場は順調に拡大していた。岩見氏はミュンヘン、ロサンゼルスと、2回のオリンピックにも香港代表を出場させ、そして自らも、毎年講道館で開かれる全日本柔道高段者大会に17回出場し、8勝2敗の成績を残している。近年には肝炎の大病を克服したばかりだ。約3万人と言われる香港の柔道人口は、岩見氏の教えを受け継いだ者たちである。柔道家にしては意外というべきか、であるからこそというべきか、人に敵意を抱くことはないという。「罪を憎んで人を憎まず」がモットーだ。だが実は昨年、岩見氏が留守中の自宅に空き巣が入り、数十万ドル相当の宝飾品などが盗まれる事件に見舞われた。「息子は『これで窃盗犯の借金がなくなればいいね』と言ったんですが、警備会社の経営者として、こればかりは絶対にあってはならないこと。メンツをつぶされ、汗顔の至りでした」――。(香港編集部・西原哲也)
